ホメテヤラネバ

見たもの聞いたものを褒めるブログ

さらざんまい①

#1 つながりたいけど、偽りたい

 

 『さらざんまい』がやっぱりいいアニメだったのと、やっぱり一筋縄じゃいかなかったのとで、頭ん中グルグルするから久々にブログへ。いつの間にか一か月放置してたわ。

 ざっくり制作側が何を伝えたいんだろうなってことを思いつくままに書いていく。たぶん順番はバラバラになる。

 なお、二か月前にさらっと言ったけど、この作品については他人の考察を一切見てない。自分の解釈を煮詰めたいからね。今この地点でも見てない。これを投稿した後で漁ろうと思ってる。

 

なんで主要人物が男だけなのか

 登場人物すべてじゃないことは、最初に断っておく。サラちゃんもそうだし、カズキの母なりエンタの姉なりは普通に出てるわけだし。人間の世界はごくごく現実的なんだよね。レオマブの被害者はだいたい男女の痴情のもつれをおこしてたし。

 だからカズキ・エンタ・トオイ・チカイ・ハルカ・レオ・マブが全員男なのは、わざとじゃなきゃおかしい。見栄えのバランスも崩れるし、日本でアニメを売るなら美少女がいた方がプロモーション楽だろうし。べつに腐向けってものでもないしね。

 大枠でプロットを捉えると、なおさらそう思う。単純に考えたら、レオとマブのどちらかが女のヘテロセクシャルだったとしても、進行にほぼ影響がない。エンタもそうだ。まあ彼が女だったら、二話の引きが九割以上弱くはなっちゃうんだけど。

 

 じゃあなんでかって、ヘテロセクシャルホモセクシャルより愛と欲の境界が曖昧だからだと思う。

 「愛欲」って言葉が象徴的だよね。このアニメでは対照的に描かれてる愛と欲が合わさると、「異性への情欲」になる。セックスは愛でもあるし欲でもある。同時に愛がないセックスもあれば、プラトニックでも愛が成立するときもある。すごくややこしい。

 ヘテロセクシャルをそもそも成立させなければ、そのややこしさは幾分か緩和できる。現実には同性でも欲情するってことはあるだろうけど、少なくともそれに旧来の「愛欲」って言葉は適合しなくなる。どれだけ仲良くしててもプラトニックで済んだって、さして違和感はない。

 

 要は、女がいない方がテーマ描写の簡素化に都合が良かったんじゃないかな。

 

欲望か愛か

 じゃあ欲と愛って何が違うんだろう。

 平易に考えたら、利己的か利他的かの違いになる。作中の文脈でも、それに矛盾するものはなかったように思う。六話の描写で、「判定: 愛」の箱の割合が少なかったのも、どことなくそれらしい。みんな身勝手だからね。

 まあここまではいいんだよ。

 

 問題はむしろ、「そもそも欲望と愛を分別する必要ってあるのか? 可能なのか?」って点にあると思うんだよね。愛か欲かっていうのは、たとえ同一の行為であっても、第一者・第二者・第三者で判別は変わるし、絶対に統一もできないから。

 

 たとえば、「勉強しない子どもを親が叱る」という行為は、単純に愛か欲か分けることはできない。親からすれば「勉強できない大人になって欲しくない」という愛があるかもしれないし、「気に食わないことがあったから八つ当たりしたい」「他の大人に自慢するダシにしたい」という欲があるかもしれない。子どもがそれをどう受け取るかもわからない。他の人間の目にどう映るかもわからない。

 ケースごとの状況次第(時代、子どもの成績、親の普段の素行等々)で認識は全然変わるだろうけど、たとえどんなケースであっても、意見が全会一致をみることはない。絶対に人によって認識・価値のズレが生じてくる。どんな状況であれ怒ることは愛ではないと言う人もいれば、子どもが何を言おうが勉強させるのが愛だと言う弘もいる。そもそも第一者の動機が、愛と欲が入り混じっている可能性だって非常に高い。

 だから本来、愛と欲を分別することは原理的に不可能なはずだ。

 

 けど、カワウソ側はカワウソ側の都合で、他人の愛と欲を振り分ける。そして自分たちにとって都合がいいものだけを、カパゾンビとして利用する。

 一方でケッピは、どんな人間の尻子玉も抜き取る。そこに判別はない。カパゾンビのものであれ、カズキらのものであれ、ぽんぽん抜き取る。ここに何か意味が含まれているように思う。

 

 もしかして、愛か欲かを判別する行為は悪なんじゃないか?

 

 実際、愛っていう言葉にはなにか、責任を曖昧にする作用がある。さっきの例でも、「子どもに勉強を強いるのは愛のムチだ!」という言い方をすると、悪いことじゃないような印象を受けてしまう人もいるはずだ。実際には親の見栄が多分に盛られていたとしても、愛という言葉で目を曇らされてしまう。

 けど本来こういうことは、立場の弱い側(さっきの例なら子ども)の意見を尊重したいもの(絶対視とは言わないけど)だったりする。加害者側が愛だなんだと謳っていようが、弱者が苦痛を感じていたならそれを正当化していいことにはならない。逆に、行為者が我欲から起こした動きであっても、被行為者がそれに感謝していたなら悪行とは言えない。愛か欲か、という基準には価値がないか、またはさほど高くない。

 

 なのに実際、なぜか愛か欲かを判別にこだわる人間ってのは存在する。ぱっと連想するのは、災害が起きたときに多額の募金をした富裕層を叩く人間かなあ。やれ売名だ、やれ不平等だとか言って、なぜか募金者を非難するんだよね。

 そりゃ募金者には、売名行為っていう欲があるかもしれないよ。でもだからなんなんだ。その欲をおくびにも出さず、こっそりやらなきゃいけないのか? 堂々とやろうがこっそりとやろうが、被災者が助かるのは変わりがないのに。仮に売名だったとして、誰が損をするんだ。

 

 ついでにこのアニメ、欲望を司っていたマブとレオは最終的にカッパの側に戻って来るし、黒ケッピも白ケッピと融合するんだよね。そのうえで、カズキ達は欲望の川を渡ってハッピーエンドを迎える。愛と欲がないまぜになった状態で、全員にとっていい形になって終わる。

 

 さらにオマケに、「欲望か愛か」の判別をしたら面白そうなシーンは結構あるのに、結局それらはそのままになってるのもちょっと裏付けになるかな。

「ちくしょう! 久慈のことばっか気にしやがってー!」

「もう一度マブの声が聞けるならなんだってする」

 これ全部利己的だし、でも愛っぽいよね。

 

 マブに至っては欲って判定受けてカパゾンビになって、でもレオはその欲を受け入れてるわけで。受け入れた後で世界から弾かれても、二人はつながってて。

 じゃあもう、欲でも愛でもいいじゃねえかってことになると思うんだけど、どうだろう。

  

 

 ……うわ、めっちゃ長くなってる。二回に分けよ。