さらざんまい②
前回に引き続きさらざんまいの考察。
続きって言っても①を読む必要はないはず。なんなら②から読んだ方が核心に迫ってて面白いかもしんない。
ウソの対比
つながりや愛と欲のように繰り返されるワードに、ウソってのもある。そこにも何か意味が込められているのは間違いない。
本題に入る前に確認するけど、ウソってなんだろう。答えは簡単だ。事実じゃないものだ。偽りでありニセモノでありまがい物。それがウソ。誰にとってもそうだと思う。同時に、「ウソと言うからにはどこかにホントがある」とも言える。ホントがないのにウソだけ存在するっていうのは、原理的にありえない。
もう一つ確認。本作におけるウソとは何か。それはカワウソだ。カズキやマブもウソをついたけど、象徴的なのはカワウソ。さんざん繰り返し言ってたし、これも間違いないよね。
ここから本題。
まず、ウソと対比されるホントはどこに行ったのか。ホントがなければウソはウソでなくなるから、どこかで描写されていなければおかしい。ウソとホントは並べられなきゃすわりが悪い。ファクト・オア・フィクションであり、トゥルース・オア・テイルってもんだよね。
ただ、一般的にウソと対比されがちな言葉「ホント」「真実」ってワードは、作中ではあんまり出てこない。印象的なのは、七話で流れた『カワウソイヤァ』の二番のAメロで歌われていたものだけだった。
支配された真実の心 切り裂いて
触れた熱さと裏腹の まがいもの欲望を 手放すな!
欲望を 手放すな!
それまでずっと一番だったのと、八話以降『カワウソイヤァ』を歌う機会がなかった分、インパクトは大きかった。歌詞自体の読み取りはさすがに話がそれすぎるからここではやめとくけど、何がしかの含意はあるんだろう。
裏を返せばそれくらいで、他に「ホント」「真実」って言葉は、ウソと対比する形では出てこなかったと思う。
じゃあホントのものは無いのかって、そんなはずはない。ホントって言葉を使ってないだけで、堂々とウソに対峙している。カワウソを戦争を続けてたカッパだ。ケッピと三人組は、真実を司る側にいた。
証拠はいくつもある。
まずカッパそのもの。名前自体が「喝破」ないし「看破」の転訛だ。どちらも、真実を追う行動という点で共通してる。
カパゾンビは命を代償に欲望だけが肥大化した何かだったけど、それに対してもカズキたちは覆い隠された(演出的には、隠すっていうか攻撃してたんだけど)内なる欲望をかっぱらっていた。かっぱらうといってもそれをそのまま奪うわけじゃない。「そうか、(中略)だったのか」と欲望の本質を看破する。その後、さらざんまいを通してケッピが消化して、希望の皿に変換する。
最終的にはどうあれ、カッパの行動の中心にはカパゾンビの欲望の真意を喝破する段階があった。ホントを求める行為だ。
これも二か月前に言ったけど、サラだって要は「晒」だ。真実をサラけ出すってこと。さらざんまいっていう現象自体、「個人情報晒し三昧」だったわけだし。
これらを踏まえたら、カッパはホントのモチーフだってことがわかってくる。
さて、じゃあ「カッパ=ホント / カワウソ=ウソ」という構図が見えたら、一体何が判るのか。これは、本作のプロットを三人組の視点から再解釈するのに役立つ。ちょっとやってみよう。
真実を導く王子ケッピに出会った三人の少年は、言われるがままにウソを打倒させられる。その経過で「晒し三昧」もさせられ、明かされたお互いの真実によって何度も内部衝突を起こす。けれど、最終的に彼らは偽りない自分をさらけ出すことで、ゴールデントリオになった。心からの、本当の笑顔を見せるようにもなった。新たな挫折に見舞われながらも、未来で夢を叶える可能性も手にした。
安易にウソや隠し事に頼らず、真実をサラすことで、誰かと心からつながることができる。『さらざんまい』が言いたかったのは、そういうことなんじゃないかな。
真実の裏面と黒ケッピ
ここまでの話に劇中の説明。(皿は生命の器、など)を足すと、カッパは事実・具体・生命の象徴だったってことが言えると思う逆にカワウソは虚偽・抽象・概念。事実と虚偽、具体と抽象の対比はともかく、生命と概念の対比はちょっと変な気もするかもしれない。
生の反対は一般的には死だ。でも死だけじゃない。
命は現実に存在していて、人はそれをゼロから生み出すことは出来ない。苦労すれば増やすことはできるけど、無から新たな種を創造することはできない。
対して言葉や理解、概念てのは人間の都合でポンポン生み出すことができる。そこに生命の息吹はない。ヒトの頭の中にしか存在しないフレームだから、生まれはしても生きてはいないし、死も訪れない。生命とは逆だ。
さて、こういう言い回しをすると、なにかカッパに善性があるような気がしてくる。実際、劇中でもそういう演出が多かった。けど、全面的に善とは言えない。世の中には知らない方がいい事実とか、他に著しい害を与える生命ってのが存在してる。残念ながらそういうもんだ。だからカッパも完全善にはなりえない。
「晒し三昧」された事実ってのが、まさに苦しみを含んだ事実なんだよね。「実は女装してます」「実は男友達に本気で恋してます」「実は人殺しです」……全部痛みを伴うけど、事実だ。ただし他人に漏れなければ痛まない。ウソをついたり、隠したりしてれば大丈夫だ。あるいは軽微で済む。
でもって、そういう「痛みを伴う事実」――マイノリティ的要素って言い換えた方がいいかもしれない――って、たぶんみんな何かしら抱えてるんだよね。抱えてるけど、持ってないフリをしたりする。なんなら他人のそれが露見したときに攻撃したりする。そのせいで悲しみが生まれるし、一層それらの事実を暴露しにくくなっていく。
けど正直、「痛みを伴う事実」を誰にも明かせないのは息苦しい。キリスト教文化圏だったら懺悔がそれに対するソリューションとして定着してると言えるだろうけど、日本にそれはほとんどない。あるいはネットの中だったら、宗教に関わらず誰にも明かせない空気があるようにも思う。
明かせないから隠す。隠してると苦しくなる。何かの拍子にバレると、バラされた本人は死ぬほど苦しくなって、死んでしまうかもしれない。引きこもってしまうかもしれない。いずれにせよ、つながり(=社会)からは弾かれる。それ以外の人は一層明かせなくなる。悪循環だ。
ケッピがかつて黒ケッピを分割せざるを得なくなったのは、このへんの暗示なんじゃないかと思う。元々人間は「好ましい事実」と「痛みを伴う事実」をバランスよく持っていたけれど、「痛みを伴う事実」を攻撃する風潮のせいで死ぬほど苦しくなってきてしまったから、それを分離してあたかもクリーンな存在であるかのように振る舞うことにした。けど分離したら本当のケッピじゃなくなってしまったし、ウソに利用されるようにもなってしまった。だから再融合することにした、と。
「好ましい事実」と「痛みを伴う事実」、両方あっての元々のケッピだ。かつ、「痛みを伴う事実」も受け入れる社会ができれば、つながりから弾かれる人がいなくなる。一度弾かれたマブとレオも、復活を果たすことができる。
ってことで、ケッピを中心に解釈しても、やっぱり「異常な真実も受け入れよう」っていうのが『さらざんまい』の伝えたかったことなんじゃないかな、って話になる。三人組に起きたことと一緒だ。
メインテーマなんだろうな、これが。
……3000字とかになったので③に続きます。
たぶん他人の考察見たら④も書きたくなるだろうし、まだ続くなこれ。